公益財団法人 鹿島美術財団

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Interview 01

水墨画

島尾 新 氏 インタビュー

島尾 新(しまお・あらた)

1953 年、東京都生まれ。東京大学大学院修士課程修了。東京文化財研究所美術部広領域研究室長、多摩美術大学美術学部教授を経て、現在、学習院大学文学部教授。著書に『もっと知りたい雪舟』(東京美術、2012 年)、『水墨画入門』(岩波新書、2019 年)、『画聖 雪舟の素顔』(朝日新書、2022 年)等がある。

  1. 6歳で出会ったボストン美術館の日本美術
  2. ボストン美術館の水墨画は不思議と変わったものが多い
  3. 日本美術史研究はドメスティックになる必要はない

6歳で出会ったボストン美術館の日本美術

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島尾先生が書かれている『ボストン美術館日本美術総合調査図録』(以下、『調査図録』)図版編の解説によると、1993年の冬から春にかけて、一か月間調査のためにボストンに滞在されたそうですね。

島尾 :

その直前に、何をしに行ったかは覚えていませんが、カリフォルニアのバークレーにいたのです。バークレーは快晴だったので、あまり冬だということを意識していなかったのですが、ボストンへ行く途中でニューヨークに着いたら、大雪になっていて予約していたプロペラ機が飛びませんでした。それで急遽TWA(トランスワールド航空)に変えて、どうにか夜中にボストンに着いて、コモンウェルス通りとマサチューセッツ通りの角にあるエリオットホテルに宿泊しました。翌朝からは晴れ上がったので、フェンウェイ通りの公園沿いをボストン美術館まで歩いて通いました。

―――

ホテルから美術館まで、毎日歩いて通われていたのですね。

島尾 :

到着の翌朝に行ったら「ごめんなさい、調査できません」って言われてしまって。前日の大雪で展示室が雨漏りして直さなきゃいけないということで、結局その後、数日はお休みになりました。雪が積もっていて特段することもなかったので、ふらふら遊んだりしていたのだと思います。実は私、小学校一年のときに、ボストンに住んでいたのです。豪雪の中を歩いて通学していました。すごい雪のときは休みになるからうれしかった。

髙岸 :

そのとき島尾先生のお父さんの研究滞在先は、MIT(マサチューセッツ工科大学)でしたか。

島尾 :

ハーバード大学のメディカルスクールです。最初は大学の人がケンブリッジの街にきれいなアパートメントを借りてくれてね。でっかい冷蔵庫がついていて、日本にはまだコカ・コーラもない頃で、夢のような生活だと思っていました。でも、一か月ぐらい経ったら、親父が「引っ越すぞ」と言って。家賃が払えなかったらしく、コモンウェルス沿いのアパートに引っ越しました。1960年のことで、ケネディが大統領に選ばれた年です。ケネディの就任演説もテレビを通して見たのですが、子供心に人々が熱狂していたのを覚えています。街でも選挙運動の最中ですから、みんな風船とかをくれて。ボストンはケネディの本拠地ですから、やたら皆さんがかわいがってくれました。

髙岸 :

まだ1ドル360円の頃だから、日本から行くのは大変な時代ですよね。

島尾 :

家族四人で行ったから飛行機代が出なくて、船で行きました。貨客船でしたね。横浜からどこにも寄港せず、パナマ運河経由でニューヨークまで、一か月弱かけて行きました。船に飛び込んでくるトビウオたちが友達でした。

髙岸 :

戦前のようなお話ですね。ボストンの何という小学校でしたか。

島尾 :

その辺は覚えてないんだけれども、当然ながらお金がないので、パブリックスクールに入りましたね。アフリカ系、ラテン系、アジア系といったマイノリティの子供たちが大半の学校でした。

髙岸 :

私も1977~78年にシカゴ郊外で小学校一年の期間を過ごし、現地の学校に通っていました。そのときは飛行機で行ったんですけれども、17年の差はやはり大きいですね。当時でも1ドルが240円ぐらいで。だから、360円の時代というのは想像できません。

―――

その頃、ボストン美術館に行かれたりしたのですか。

島尾 :

もちろん行きました。家からだと歩ける距離にあるので、お散歩コースで。一般に開放していたので、美術館の中庭が遊び場だったんです。

髙岸 :

ということは、島尾先生が初めて日本美術に出会ったのはボストンだったと。

島尾 :

そうかもしれません。

―――

記憶に残っている作品などはありますか。

島尾 :

さすがに、それは難しいですね。でも、中庭の横の部屋に浮世絵みたいなものが掛かっていたのは覚えています。

髙岸 :

6歳でボストン美術館を訪れて、再び40歳で戻ってきたということですね。

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鹿島調査の際に美術館側の担当者であったアン・ニシムラ・モース氏(現、ボストン美術館日本美術課長)とは、どのようにお知り合いになられたのですか。

島尾 :

アンさんとサムさん※1は、大学のときからの知り合いだったのです。ちょうど私が院生だったころに、二人が東京大学へ留学に来たんです。辻惟雄先生のゼミだったのですが、辻先生ってぼそぼそとお話になるじゃないですか。それで、アンさんとサムさんが初めて来たときに、二人ともゼミが始まっていることに気がつかずおしゃべりしていて。それで二人に「もう始まってるよ」と伝えたのが最初でした。 ※1 サムさん …サミュエル・C・モース、アン・モース氏の夫で現、アマースト大学教授

※1 サムさん …サミュエル・C・モース、アン・モース氏の夫で現、アマースト大学教授

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