ボストンでの日々の食事などはどうされていたのですか。
学芸員室には、鹿島調査の調査団用のデスクが用意されていて、壁にボストンの地図が貼られていました。最初に仏画の調査で来られた泉武夫先生が残してくださったもので、鹿島調査で来た研究者は美味しかったレストランをこの地図に書きこんでいく義務があったのです。
それは面白いですね。今はもうないのですかね、見てみたいですね。
どこかにまだあるんじゃないですか。泉先生がかなり入れてくれていて、私は何人目だったのか、ちょっと覚えていませんが。
鹿島美術財団の援助のもとボストン美術館の作品を悉皆調査するといった、大がかりな事業を可能にした時代背景や空気感などについてもお聞かせください。
円も高くなって、バブルで景気よくなっていたし。この鹿島調査は、ほぼ平成の初めから終わりまでの30年間に結果的として収まっていますよね。
そうですね。JAWS(日本美術史に関する国際大学院生会議)が始まったのもやはりそれぐらいでしょう。
はい、JAWSが80年代後半ぐらいからですから。日本美術史で国際的に何かやりましょうということが始まった時期でしたね。
そのような時代背景から、今回の計画も始まったんですね。今は円安になってしまっていますが、今後の、在外の研究活動についての展望をお聞かせください。
日本の経済が好調で、円が高かったということもあって、あの頃は海外調査が盛んになり、学芸員にも美術商にも海外に出て行こうという人がいました。方法論を含めて海外の研究者との交流や、海外への日本美術の発信やマーケット作りへの関心も高かった。しかし今は、あちらを拠点にしたり、長期間滞在する日本人が少なくなった。日本美術史をやっている海外の学生はそれなりにいるけれども、反対に長期留学する日本人は少ないですね。
あまりいないですね。ディーラー、コレクター、美術館、大学といった日本美術の海外拠点みたいなものが、次第に減ってきているということでしょうか。
美術館は別として全体的にはね。髙岸さんがおっしゃったように、ひとつの時代というかフェイズが終わった気がします。80年代は、海外に行って現地の日本美術を初めて見るという感じが強かったんです。それが、簡単に海外に行けるようになり、鹿島調査などの悉皆調査もあって、一通り見終わったという感じもあるでしょう。今では、ボストン美術館もそうですが、メトロポリタン美術館もフリーア美術館も、海外の美術館のほとんどが、デジタルで画像を公開しています。かつてはまだ見たことのない作品を見たいという渇望感がありましたが、その時期は過ぎてしまった。
この交流の減少というのは、その渇望感が一つなくなったところで、次の理由みたいなものをまだ見つけられていないということでしょうか。この問題に対して、今後日本側はどうすべきでしょうか。
やはり、もう少し学生が海外に出ていったほうがいいと思います。私のときなんかよりは、ずっと行きやすくなったはずなんです。今は円安でまた少し行きづらくなりましたが。その行きやすくなったときに、特に長期では行かなくなったという気がします。
コロナがあってここ二、三年海外に全く行けない状態になり、別の意味での渇望感が生じてきていますよね。
これだけ国際化してきたなかで、ドメスティックになる必要はないですよ。ある程度の期間、海外に出てみて自己を相対化しないとという気がします。作品調査にしても、もう調査されて知られているかどうかは関係ないですよね。自分の目で生で見て確かめるのが大切で、そのためには海外にも行かねばなりませんし。国内よりゆっくりと作品を見られたりもしますから。
日本の学生や若手の学芸員がアメリカの美術館に行くときに、当地の大学や美術館から学ぶべきことは何でしょうか。
なんとなく、求めている知識や経験の範囲が狭くなっているように思うんです。日本の美術品を研究することだけを考えたら、日本にいたほうがいいに決まっています。でも人文科学というのは、人間についての学問であって、物自体についての学問じゃないというのが基本ですよね。あまり物のことにこだわりすぎず、やはり人間と社会を見ておかないといけない。トランス・カルチャーとはいいませんが、外の文化を実感をもって知らないと、比較文化論もできませんよね。日本文化をやっている人は日本にいればいいということではないでしょう。
今回は貴重なお話をお聞かせ頂き、ありがとうございました。
今回『調査図録』が刊行されましたが、これだけがあっても、その背景や関係者の思いは分からない。でもこんなインタビューなどをやっておくと、何となく残るわけですよね。こういうタイプのオーラルヒストリーも、やはり重要なものだと思います。
今回の企画の趣旨をよくご理解頂き、ありがとうございます(笑)。長時間にわたり、ありがとうございました。