公益財団法人 鹿島美術財団

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Interview 06

仏画

泉 武夫 氏 インタビュー

プロフィール写真:泉 武夫

泉 武夫(いずみ・たけお)

1954年、宮城県生まれ。東北大学大学院修士課程修了。大阪市立美術館学芸員、京都国立博物館教育室長を経て、東北大学大学院文学研究科教授。現在、同名誉教授。博士(文学、東北大学)。著書に『仏画の造形』(吉川弘文館、1995年)、『仏画の尊容表現』(中央公論美術出版、2010年)、『古代中世絵絹集成』(中央公論美術出版、2022年)等がある。

  1. 鹿島調査の立ち上げとデータベース構想
  2. 作品の造形力が強力に訴えてくる「法華堂根本曼陀羅」
  3. 素材の時代的変化を確信
  4. ボストンのレストランマップ
  5. 辻先生からの助言―「王者の仏画」と「パトス」と

鹿島調査の立ち上げとデータベース構想

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泉先生は鹿島調査プロジェクトの一人目として、1992年にボストン美術館で仏画の調査にあたられました。その経緯をお聞かせください。

泉 :

聞くところによれば、アン・ニシムラ・モースさん(現、ボストン美術館日本美術課長)はプロジェクトを立ち上げるに当たって辻惟雄先生に相談した結果、鹿島美術財団に支援を要請することになったようです。そして個々の調査はどうしようかというときに、アンさんが「現役の学芸員に来てほしい」というのを第一ポリシーにしたんだそうです。ですから調査にあたった研究者は、今は皆さん大学の先生などになっていますが、そのころは現場の学芸員だった人がほとんどです。なぜ仏画で私が指名されたかは知らないのですが、そんな経緯で、ありがたくもご指名いただいたということになります。

―――

京都国立博物館にお勤めの頃ですね。仏画調査の依頼は辻先生からでしたか。

泉 :

辻先生から最初に打診がありましたね。その後、アン・モースさんとサム・モースさん(現、アマースト大学教授)のご夫妻が京博に来られて、同館の上山春平館長にこういう計画で私の出張を許可してほしいという申し入れをしたんです。当初の計画では調査期間がとても長かったので、そのまま認めるわけにはいかないと言われましたが、分割するならばいいということで、2回に分けて行ったんです。

―――

1回あたりどれぐらいの期間でしたか。

泉 :

最初が1992年1月から約1ヵ月間、2回目が5月末から約2ヵ月。合計すると約3ヵ月滞在しましたね。

―――

3ヵ月で計260点の仏画を見られたということですが、古い時代の名品は時間をかけて、近世など新しい作品は手早くというペース配分ですか。

泉 :

そうですね。とはいっても、おおむね館の蔵品番号順に見ていきましたから、1日数点ぐらいが平均です。時々重要なものが出てきますので、半日それに没頭するということはありましたが。アンさんの方も1日数点のペースだと消化不良になるに違いないという配慮がありましたので、名品には時間かけていいですよと。

髙岸 :

蔵品番号順だと、制作年代はばらばらでしょうか。

泉 :

ばらばらです。

髙岸 :

カメラも持っていかれて、『古代中世絵絹集成』(泉氏略歴を参照)に載っている「法華堂根本曼陀羅」(図1)の布目の写真などもそのときに撮られたのでしょうか。

泉 :

そうですね。拡大鏡を持っていって、気になる作品にはそれを用いました。スペックウェルというメーカーの接眼用レンズを作品にあてて見るのですが、京博の修理工房の人たちがよく使っていたものです。それを真似して購入し、レンズに薄葉紙を切り抜いて挟んで、直接あたってもショックを与えない工夫をして観察しました。

髙岸 :

中にライトが組み込まれているのですか。

泉 :

ライトはないので、脇から他の人にあててもらって。ボストン美術館では、作品を出すときに修復師の方が必ずハンドリング(作品を実際に取り扱うこと)していましたので、必要があればすぐに手伝っていただけるんです。

図1:「法華堂根本曼陀羅図」
(11.6120, William Sturgis Bigelow Collection)
『調査図録』I「仏画・垂迹画」1番
―――

ボストンの仏画は多くが額装されていて、かなり分厚く古いガラスに入っているものも多いと思いますが、調査はガラス越しでしたか。

泉 :

いえ、ガラスはその都度撤去しました。一応、額の裏も見ましたが、新しい情報が加わったという覚えはないですね。従来から知られていることを確認したぐらいで。

髙岸 :

額装になっている周りの表装の裂は、新しいものばかりですか。

泉 :

基本的にはそういう感じでした。

―――

アンさん自身もハーバード大学出身の仏画の研究者ですが、どのような意見交換をされましたか。

泉 :

一緒に作品を観察しながら、技法はどうだろう、制作年代はどうだろうなどと話をしました。いちばん気にされていたのは、それまでの年代判定でアンさんがどうしてもうなずけないものがあって、これらは擬古作じゃないかといったものについても意見を交わしましたね。しかし微妙なところもありますので、年代不詳とした作品も少しはありました。また、フェイクと言ってしまっては身も蓋もないので、これらは擬古作のような形で『ボストン美術館日本美術総合調査図録』(以下、調査図録)の仏画の章の最後に固めておきました。

髙岸 :

全体の割合として擬古作はどれくらいありましたか。

泉 :

それほどはなかったですね。少ないですよ。9割以上は大丈夫という感じでしょうか。

―――

特にフェノロサとビゲローが集めたものは、問題のないものが多そうですね。調書はどのように作成されましたか。

泉 :

鹿島美術財団が、今回の調査のためにデータを入力するためのパソコンを用意してくれていたんですよ。それをセットアップするために、同じく仏画の研究者の須藤弘敏先生(現、弘前大学名誉教授)も一緒にボストンに行き、最初の1ヵ月はデータ関係のシステムの立ち上げや、入力の具合の調整もしていましたね。

髙岸 :

それは初めてうかがったのですが、パソコンを日本から持って行ったということですか。

泉 :

そうです。NECのデスクトップでした。一応、システムのひな形はありましたが、それがちゃんと機能するか、表などがちゃんと打ち込めるかを確認しながら進めました。パソコンは日進月歩ですから、このやり方でずっと続けられるかはよくわからなかったので、その時点では取りあえずこういう形式で打ち込んでおいて、という感じです。当時、ボストン美術館にはデータベースを作成し始めているセクションがあり、楽器部門に有能な学芸員がいて、それを見に行って説明を受けると、こっちのほうがいいなとか思ってしまいましたね。しかし、NECの機械で、後からそのシステムを導入しようとしても無理でした。まだWindowsが出る前なんですよ。

髙岸 :

Windows95より前ですね。紙の調書も取りながら、同時にパソコンにも作品のデータや所見を日本語で入れていったのでしょうか。

泉 :

はじめは、それをやりかけたんですが調査だけでも大変で、それどころじゃないんです。それで、手書きの調書を作成し、須藤さんがホテルに持って帰って夜に一人で打ち込んでいたそうです。大変だと言っていましたね。その後はボストン側で、より良いやり方はないか試行錯誤をされたはずです。竹崎さんがいたときは、どんな感じでしたか。

―――

TMS(The Museum System)というシステムを用いて、美術館の所蔵品全てをデータベース上で管理していました。ですから、日本から来た先生方は紙の調書をとって、そのあと学芸員がTMSに入力する体制に変わったのではないかと思います。

髙岸 :

つまりボストン鹿島調査は、当初から電子カタログ化を考えていたということですか。

泉 :

そうなんです、ええ。それは確かに。

髙岸 :

結果として、現在のインターネット上のコレクションサーチへとつながっていくことをされていたんですね。少し早過ぎたのかもしれませんが。

泉 :

アンさんもどこかで発言していたように、日本の学者がたくさん来て作品を見ていくのはいいのですが、美術館には何も残らない。調査の結果がどうだったか、手元に残らない状態がずっと続いてきたのを何とかしたいと。あとは、鹿島としては調査資金を出す以上、その成果としてデータを公表してほしいという強い意向が最初からあったようなんです。そこでパソコンを日本から持ち込んで、データを保存しようということになったようです。

髙岸 :

非常に面白いですね。須藤先生はコンピューターに通じておられたのですか。

泉 :

ええ、詳しかったんですよ。だから、彼は出国する前に企業のデータ研修みたいなものを東京で受けてから来たらしいんです。この線はここに入れるなどと話し合い、システム上の調書を事前に作成して、現地でそれを再現したんですね。

髙岸 :

かなり本格的ですね。プロジェクト全体の志がどのあたりにあったのかが、改めてよく分かりますね。

―――

コレクションサーチ、あるいはミュージアム・システム史においても最初の一歩だったかもしれませんね。

髙岸 :

90年代の初めだと、京博でも所蔵品データベースみたいなものはあったのでしょうか。

泉 :

まだ本格的にはないですね。あの頃、日本でも二所三館(東京国立文化財研究所・奈良国立文化財研究所・東京国立博物館・京都国立博物館・奈良国立博物館)に佐倉の国立歴史民俗博物館を加えて、そういうデータベースをやらないといけないという動きがあって、東博にいた高見沢明雄さんが最も詳しかったので、彼が旗を振る形で統一フォーマットをつくろうとしていたんです。何回か改良しましたが、それぞれのジャンルで使い勝手が違って、統一規格がなかなかできないんですよ。それがずっと続いていました。もちろん海外でも同じ発想があり、日本と同時並行でやることになったのではないでしょうか。

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