公益財団法人 鹿島美術財団

  1. トップページ
  2. 佐藤 道信 氏 インタビュー

狩野芳崖と米国ロマン主義の風景画

―――

ボストン美術館の近代日本画のうち、お気に入り作品を教えてください。

佐藤 :

僕は修士論文のテーマが狩野芳崖だったので、まずは芳崖から。ボストン美術館所蔵の芳崖作品では仏画系統以上に山水画が好きで、たとえば「谿間雄飛図」(図4)ですね。谷底を描かない滝図、水しぶきにけむる立体空間、なんでこうした景観を描いたのだろうという不思議さが、僕にとって芳崖を研究する最初のきっかけでした。その後こうした特徴は、ターナー※7のアルプスを描いた作品のようなロマン主義からの影響だろうと思いました。西洋で風景画が画面の背景から主役たるべきモチーフとなり、世界中に広がっていった、19世紀、その系統はほぼロマン主義かバルビゾン派※8でした。両者のうち、芳崖が見たのは、アメリカ経由のロマン主義だろうなと思って、渡米中にハドソンリバー派やロッキーマウンテン派※9に関する本や図録を買い集めました(図5)。 イギリスのロマン主義の画家。光と大気、山岳や嵐など劇的な風景画を描いた。 1830年代から60年代にかけて、パリ郊外フォンテーヌブローの森の小村、バルビゾンに集まって風景画を描いた画家たち。テオドール・ルソー、コロー、ミレーなど。 19世紀のアメリカで生まれた風景画派。ロマン主義の影響を強く受け、壮大なアメリカの大自然への畏怖と賛美による風景画を描いた。図5のアルバート・ビアスタット(1830〜1902)もその一人。

図4:狩野芳崖「渓間雄飛図」 図4:狩野芳崖「渓間雄飛図」
(11.8740, William Sturgis Bigelow Collection)
『調査図録』XVI「近代絵画」2番
図5:アルバート・ビアスタット「ヨセミテ渓谷」 図5:アルバート・ビアスタット「ヨセミテ渓谷」
(Gift of Martha C. Karolik for the M. and M. Karolik Collection of American Paintings, 1815–1865, 47.1236)
アメリカ、1864年、ボストン美術館蔵

 ヨーロッパのロマン主義がアメリカに渡り、芳崖の山水画へとつながっている。ただ、この芳崖の山水画は後には続かなくて、孤立しています。そのころ、ヨーロッパやアメリカの風景画家たちは、山岳の氷河や南米の熱帯なども描くようになっていました。やがて極地探検へと向かう、地球の隅々まで人間の視野が広がっていくのと並行する現象だと思います。

―――

仰るとおり芳崖の絵をハドソンリバー派と比較すると、従来の見方が変わりますね※10佐藤道信 「狩野芳崖後期の山水画と西洋絵画」(『美術研究』329号、東京国立文化財研究所、1984年9月)

佐藤 :

アメリカにいる間、ハドソン川を遡上したり、ヨセミテ渓谷に行ったり、モニュメントバレーに行ったりと現地を見て回りました。地球上の開拓の展開とビジュアルイメージの拡大が、明治初めという時代の視覚の拡大と交錯しているんだろうなという気持ちがあったので、現地を見ることができてすごく面白かったですね。

―――

ハドソンリバー派の作品はアメリカの美術館には必ずありますよね。芳崖のほかの作品はいかがでしょうか。

佐藤 :

ほかには、「江流百里図」(『調査図録』第16章1番)という作品があります。図版で見ていると分からないのですが、思ったよりも小さかったんです。

―――

写真だと巨大な絵に見えますよね。実際は縦60センチ、横130センチくらい。

佐藤 :

小さな画面に大きな空間を描いているのですが、東洋の水墨画の三遠法※11と、西洋の空気遠近法・線遠近法をすべて合わせたような表現で、このような3Ⅾの巨大空間をめざした山水画は、後にも先にもないと思っています。水辺の村などは爪の大きさぐらいのところに細かく筆で描いています。伝統的な水墨画を描いてきた発想からは出てこない、ややトリック的な絵です。異文化や大自然から触発されたのだろうと思いましたね。 中国北宋の画家・郭煕が『林泉高致』で示した山水画の構成法。山を仰ぎ見る高遠、広く眺望する平遠、奥の山を覗き見る深遠。

―――

芳崖以外はいかがでしょうか。

佐藤 :

小林永濯※12 の「道真天拝山祈祷図」(図6)が印象に残っています。初めてアンさんとこれを見たとき、上から30センチほど出したところで「本当に見たい?ゲテモノっぽいのが出てきそうだけど」と聞かれ、「うん見たい」と言うと、画面全体が現れました。そのときの驚きと感動は今でも鮮明に覚えています。鹿島の調査の際には、高階先生にもご覧いただきました。やはりエル・グレコ※13風ですよね 。スペイン風でもあるし、なぜこの時期にこういう絵が描かれたんだろうかというお話を高階先生としました。明治初期の、よく言えばダイナミック、悪く言えばやや乱暴な感じですが、江戸時代にすでに絵の基礎ができていた画家と、西洋文化とが衝突したような当時の空気を伝える作品だと思います。 幕末明治の江戸・東京で活動した狩野派の画家。中橋狩野家の狩野永悳に学び、維新後は錦絵も手がけた。西洋絵画との折衷表現を志向し、外国人の門人もいた。 現在のギリシャ領のクレタ島出身、本名はドミニコス・テオトコプロス。主にスペインで活躍したマニエリスム後期の画家。激しい明暗の対比や色使い、引き伸ばされた人体や歪んだ表情などにより、神秘的・幻想的な宗教画を描いた。

図6:小林永濯「道真天拝山祈祷図」 図6:小林永濯「道真天拝山祈祷図」
(11.9412, William Sturgis Bigelow Collection)
『調査図録』XVI「近代絵画」33番
図7:エル・グレコ《祈る聖ドミニコ》 図7:エル・グレコ《祈る聖ドミニコ》
(Maria Antoinette Evans Fund, 23.272)
スペイン、1605年頃、ボストン美術館蔵
―――

鹿島調査で新たに見出された作品はありますか。

佐藤 :

芳崖の「山水画帖」(図8)ですね。さきほどの空間表現との共通性から僕は気になったので、面白いなと思いましたね。それから横山大観※14の「海」(図9)。点景がなくて水平線もない、まさに混沌を描いた作品で強く印象に残っています。これは、岡倉天心※15が言うところの道教の「混沌」の世界観を絵画化したものだと僕は思ってるんです。天心の道教観、混沌観をいちばんよく示しているように思います。 水戸に生まれ、父は水戸藩士。東京美術学校日本画科に第一期生として入学し、1898年岡倉天心に従い日本美術院の創立に参加、菱田春草とともに朦朧体などを試みた。1904年から翌年にかけての欧米旅行では各地で小品展を開催し、その際のものと思われる作品がボストン美術館にも収蔵されている。 横浜に生まれ、父はもと福井藩士。本名は覚三。東京大学在学中にフェノロサの日本美術収集を助け、1887年ともに東京美術学校を設立。1898年には日本美術院を創立し、1904年からボストン美術館でフェノロサ、ビゲローらの寄託(のち寄贈)作品の整理にあたる。1910年に同館中国・日本美術部長となった。

図8:狩野芳崖「山水画帖」第一図 図8:狩野芳崖「山水画帖」第一図
(11.9444, William Sturgis Bigelow Collection)
『調査図録』XVI「近代絵画」3番
図9:横山大観「海」 図9:横山大観「海」
(Edward Jackson Holmes Collection—Bequest of Mrs. Edward Jackson Holmes, 64.2074)
『調査図録』XVI「近代絵画」60番
※7 ジョゼフ・マロード・ウィリアム・
ターナー(1775~1851)…
イギリスのロマン主義の画家。光と大気、山岳や嵐など劇的な風景画を描いた。
※8 バルビゾン派…
1830年代から60年代にかけて、パリ郊外フォンテーヌブローの森の小村、バルビゾンに集まって風景画を描いた画家たち。テオドール・ルソー、コロー、ミレーなど。
※9 ハドソンリバー派、
ロッキーマウンテン派…
19世紀のアメリカで生まれた風景画派。ロマン主義の影響を強く受け、壮大なアメリカの大自然への畏怖と賛美による風景画を描いた。図5のアルバート・ビアスタット(1830〜1902)もその一人。
※10 …
佐藤道信 「狩野芳崖後期の山水画と西洋絵画」(『美術研究』329号、東京国立文化財研究所、1984年9月)
※11 三遠 …
中国北宋の画家・郭煕が『林泉高致』で示した山水画の構成法。山を仰ぎ見る高遠、広く眺望する平遠、奥の山を覗き見る深遠。
※12 小林永濯(1843~90)…
幕末明治の江戸・東京で活動した狩野派の画家。中橋狩野家の狩野永悳に学び、維新後は錦絵も手がけた。西洋絵画との折衷表現を志向し、外国人の門人もいた。
※13 エル・グレコ(1541~1614)…
現在のギリシャ領のクレタ島出身、本名はドミニコス・テオトコプロス。主にスペインで活躍したマニエリスム後期の画家。激しい明暗の対比や色使い、引き伸ばされた人体や歪んだ表情などにより、神秘的・幻想的な宗教画を描いた。
※14 横山大観(1868~1958)…
水戸に生まれ、父は水戸藩士。東京美術学校日本画科に第一期生として入学し、1898年岡倉天心に従い日本美術院の創立に参加、菱田春草とともに朦朧体などを試みた。1904年から翌年にかけての欧米旅行では各地で小品展を開催し、その際のものと思われる作品がボストン美術館にも収蔵されている。
※15 岡倉天心(1853~1913)…
横浜に生まれ、父はもと福井藩士。本名は覚三。東京大学在学中にフェノロサの日本美術収集を助け、1887年ともに東京美術学校を設立。1898年には日本美術院を創立し、1904年からボストン美術館でフェノロサ、ビゲローらの寄託(のち寄贈)作品の整理にあたる。1910年に同館中国・日本美術部長となった。

ページの先頭へ