福田繁雄 ≪5次元のヴィーナス≫
19世紀末に西欧で展開した絵画の象徴主義は、通常ルネサンス以来の再現的な絵画からの脱却として位置づけられている。印象派のクロード・モネなどの筆触分割が、自然に対するかなり主観的な解釈を行いつつも外観の表象に留まっていたのに対して、象徴主義は人間の内面に目を向けたというわけである。
しかしそこには、先駆者としてのギュスターヴ・モローやピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、クロワゾニスムのポール・ゴーガンやナビ派、独自の幻想的世界を展開したオディロン・ルドン、神秘主義的傾向の強いフェルナン・クノップフやジャン・デルヴィルといった極めて多様な芸術家が含まれており、それゆえ象徴主義とは何かという問題は、しばしば研究者をも当惑させてきた。実際、これらの画家たちは、一つの目的や主張のもとに集結したわけではなかった。正確にいうならば、象徴主義とは運動というよりは漠然とした潮流であったのである。
しかも、「象徴」と言う言葉がしばしば誤解を生んできた。通常「象徴」とは何か明確な対象(ものや概念)の代理となる表象のことだが、象徴主義の場合は必ずしもそうではなかった。同時期の文学の象徴主義は、直接描写したり、概念として認識したりすることができないものを示すために象徴という手段を取らざるを得ないと考えた。逆に言えば、直接対象や意味を示さない暗示的な表現が探求されたのである。象徴主義の絵画に関しても、従来「それが何を意味するのか」がしばしば問われてきたが、そもそも言語化できる対象がない場合が少なくないことを留意すべきなのである。
本書はこうした認識に立って、象徴主義絵画に見られる暗示の方法に着目した。それは今日象徴主義と呼ばれている潮流全てにあてはまるものではないが、少なくともその重要な新しい特質と考えられるからである。
本書では、まず序章で、象徴主義絵画が同時代にどう考えられていたのかを確認し、それが決して一つのまとまった運動ではなかったこと、またこれまでの先行研究がそれゆえにその定義を巡って混乱を来していたことなどを確認した。ついで7つの章において、暗示という効果を生む画面構造をレトリックとして捉え、主にイメージの分離・並列・呼応による効果を分析した。具体的には、ギュスターヴ・モローの《踊るサロメ》《出現》(ともにパリ、ギュスターヴ・モロー美術館)などの画面に見られる線描と色彩の乖離と文様の類似、ポール・ゴーガンの《説教の幻視》(エディンバラ、スコットランド国立美術館)のクロワゾニスムが持つ、現実と非現実を融合する手段としての側面、オディロン・ルドンの《目を閉じて》(パリ、オルセー美術館)が示す類似する作品群との照応関係、ルドンが、バルワー=リットンの小説に基づいて制作した版画集『幽霊屋敷』(アート・インスティチュート・オヴ・シカゴ他)の挿絵からの逸脱、同じくルドンの描いた《ド・ドムシー男爵夫人の肖像》(パリ、オルセー美術館)におけるモデルと周囲の空間との乖離、フェルナン・クノップフの《青い翼》とそのヴァージョン《白、黒、金》(ともにブリュッセル、王立美術館)の差異の理由、アルフォンス・ミュシャのポスターにおける象徴主義的手法などが考察される。
(文・喜多崎 親)
著者・編者・監修 | 喜多崎 親 |
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判型 | A5判 |
ページ数 | 320頁 |
定価 | 4,500円+税 |
ISBN | 978-4-88303-606-6 |
発行日 | 2025年2月28日 |
出版社 | 株式会社三元社 |